第5話「鉢合わせ➀」

異世界学のオリエンテーションから一夜あけた今日。
今日はなにもない。

オリエンテーションも、明日はあるが、今日は取りたい授業のそれが行われない。 だから、家の床に転がっている。

いまは朝の七時。
起きたのは六時。ちょうど一時間が経った。

真琴は九時からオリエンテーションで、今日は会う約束もしていない。 完全に空白となってしまった今日をどうするか、私は悩んでいた。

※----※----※----※----※

異世界学のオリエンテーションが終わった翌日の夕方。
俺はオリエンテーション後に入った学部会議のせいで出来なかったレポートチェックのため、研究室へと出勤していた。
オリエンテーションが終われば、しばらくは休めると考えたが、甘かったようだ。

机に積まれたレポートを横目に、インスタントミルクティーの粉を入れたコップにポットからお湯を注ぐ。 湯気をたちのぼらせながら、同時に甘い香りも漂わせてくる。

「あっぢ!!」

一口飲もうとするが、あまりの熱さに一瞬、やけどをしたかと思ってしまう。
それもそうだ。ポットの温度表示を見れば、「九十四度」とある。
やけどになりかけてもおかしくはない。

衝撃で少しミルクティーがこぼれたが、幸い小論文の束にはかかっていない。
近くの雑巾を手に取り、ふこうとした。しかし、手に雑巾を持ったところで、その雑巾は誰かに取り上げられた。

「ここはわたくしがやっておきますので……」

「いいよ、こっからの生活なんて大概俺がやらんといけないしな。お前に頼るのも……な」

「……それはわたくしの存在への冒涜でございます。わたくしは、生まれてからずっと仕えてまいりました」

「その忠誠心はこっちの世界には持ち込まない方がいい。……この世界は、俺らの世界とは違いすぎる」

「……耳にたこができてしまいますが」

「男女の見られ方、社会情勢、貧富の差……いやそれは似てるが、しかしだな」

「そもそものレベルさえ違う、とおっしゃるのですね」

「あぁ、何度も言うとおり、俺はこの世界からすれば、何も知らない非常識人だ。……もう、使われなくなった戦術なんて知ってるだけのな」

「……。ご自分への悲観は……、いえなんでもございません」

雑巾を持った手は固く握られている。それを見て、サッとその手に自分の手を被せる。 しかし、その手は奥へと引っ込まれた。 真顔なのに、どこか悲しさを感じさせるその表情に、俺はただ立っていることしか出来ない。 やがて、メイド服を着た彼女が雑巾で床を拭くが、その頃になっても俺はただじっと、その仕草を眺めているしかなかった。

「よいのですか? レポート、夕方まででは?」

「……なぜ知ってるのか、はもう聞かないぞ。どうせ紛れて見てたんだろ?」 「いえ、教壇の下におりました」

「……は? すまん、もう一回言ってくれ。そんなところにいて、俺が気づかないはずがない」

「ですから教壇の下に隠れておりました。貴殿のたくましい逸物が目の前……」

「あぁ~! もう聞こえない!! 俺は聞いてないからなぁ~、あぁ~!!」

「でしたら、大きな声で申し上げましょうか? 貴殿のですね、いちも……」

両手を使い、口をふさぐ。もがもがと手の拘束から逃れようとするが、完全に大人しくなるまで俺は離さない。中に誰もいないとはいえ、ここで性的な話をされるのは困る。ただでさえ、この世界はセクハラに厳しいのだ。 この世界の者でない俺が、そんなつまらない誤解で捕まったりでもしたら、セクハラ以前の問題となってしまう。

そうだ、これは秘密なのだ。 俺が異世界学を教えることで得られるものを、自分の世界へと持ち帰るため。 この世界とよりスムーズな交流を作るための基礎固め。
そのために俺はこの大学に入り卒業し、そして教授となったのだ。

しかし、別の思いもある。
想像力を失ったこの世界に、新しい芽を生み出させたい。……それはかつて、あの世界が固定概念の鎖でガチガチに縛り上げられた窮屈な場所を、たった一つの予想外で形勢を逆転させたときのように。 異世界をまだあまり知らないからこそ出来る、生み出す力を、この世界に伝えたい。

レポートを一枚一枚めくっていく。

『剣と魔法が使える、ファンタジーな世界のことを異世界と呼ぶ』 『人族の中にも細かい分類のある世界のことである』
『私たちが住んでいる世界とは異なる考え方や生活様式を持つ世界のことを指す』

どれも作られた世界だ。
小説や噂によって、頭に定義されてしまった「異世界」は異世界ではない。それは想像の世界だが、想像力を使ったものではない。
また一枚、また一枚とドンドン内容のない紙をめくっていく。
しかし、その一枚は俺の流れ作業を強制的に止めた。
そのレポートは異世界を知らないながらも、きっと土壇場で書いただろう殴り書きの薄汚れたものだが、その文字一つ一つはしっかりと文章を構成し、まさに想像力と論理的思考力が入り混じった紙面を作り上げていた。
『……異世界とは、固定概念や先入観によって定義された瞬間に妄想となってしまう、他の世界との接触が神聖化される領域である。それは定義することができず、しかし他の世界によって定義される特徴を持つ。』
……これは、おもしろい。いや、おもしろくなりそうだ。 ハチスカワユイナ、国際社会学部、か。

机に置かれていたハンコを持つ。朱色のインクが染みこんだスポンジへ3回、しっかりと色を付ける。 そして、レポートの右上に、軽く押し付ける。

『採用』

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